小幡敏の日記

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自粛派と緩和派

双方罵り合いに近い状態にあるが、『教授』のような立派な肩書をもっていても『おまえは何も分かってない!』と相手の立場を理解しようともしない姿には、唖然としてしまう。

 

私は自粛云々についてはあまり関心がない、いや、生き方を邪魔してくれるなくらいには思っているが、これについてはやはり若干緩和派に肩入れしたくもなる。

 

今更いうまでもないが、自粛によって経済被害が出ることは確実である一方、それが感染の食い止めに資するという保証はない。

そうであるからこそ、緩和派は経済被害を最小化するために根拠不明の自粛を緩和せよという。

これにはもちろん不明確な要素が介在するから、問題はつねにバランスの取り方ないし妥協点の発見となる。

 

ところが、自粛派一般に見られる傾向として、今般の感染者拡大は自粛緩和に違いないと即断し、この責任を緩和派に押し付ける。

 

確かに、緩和派の中にも極めて無責任なものもいて、そういう非難が妥当する場合もあるが、むしろ自粛派があれだけ強く出るには、緩和派に対して自粛効果の証明をするのが先決であろう。なぜなら、緩和派が重視する経済被害はあくまでも確実なのである。

 

もっとも、それは無理というものだ。それもまた自明ではある。つまりは、その躊躇いをどこかに抱いてもらわねば困ると言いたいのであり、話は元に戻るが、やはりこれはバランスが問題なのであって、互いに絶対を求め合う状況はどうしたって不健全ではないか。

 

大勢として、自粛派は絶対に感染者拡大を防がねばならないという。緩和派はこれ以上の経済被害は絶対に回避せねばならないという。これでは対話のしようがないではないか。

 

本来求められるのは、感染死者数に関してここまでは許容できる、というのと、経済被害をここまでは許容できるということとの均衡点の捜索である。命と経済は天秤にかけられないというが、それは謬見にすぎない。なぜなら、彼らのいう命は数字に過ぎないからである。今日の命を明日の命より大事にすることなど、人間だれしもあり得べきことであることを思えば、社会における個体減少に個人の生の濃淡を混濁させてはならない。

 

とはいえ対話する気がないならそれはそれでよい。私はハナから民主主義など信用していないし、この国でまともな議論が行われた試しなどなないと常々思っている。

 

そうであれば政府に求めるのはより明確な意志をもった作為である。

 

国民は感染者数しか気にしていない。検査数や死者数、またそれらの内訳についてもウォッチしているというものがいようが、これらの氾濫せる情報は大衆の頭を右から左に流れていくだけで、大方のものはムードでものを考え、最終的な雰囲気を形作っているにすぎない。

 

波というのは様々に形を変えるが、海面下の動きは一定である。それはいったいどのようになっているのか。

 

政府はそこに着眼し、存分に作為せよ。感染者数さえ目に見えた形で管理下に置くことができれば、あとは如何様にも碁が打てるのである。