小幡敏の日記

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命を粗末にする日本人が命を守れとは、これいかに

全く笑わせてくれる。

 

命を尊重する、人の命は重い、そういう本人が命を粗末にしているではないか。

 

思い返せば我々は生物の進化を語るとき、埋葬をひとつの画期とみた。死者を悼む感情を、高等動物の到達点と考えたのである。

 

だが、それに従えば我々は獣への道に後戻りしているとしか思えない。

 

我々は死を家庭から追い払い、仏壇をなくし、墓は打ち捨て、安物の喪服で葬儀屋任せのおざなりな追悼を戸惑いながらこなしているに過ぎず、もはや死者を悼む作法をなくしてしまった。

 

それは僕自身例外ではない。だが、それに醜さや不調和は見る。

 

誰かがいっていたが、仏壇から引いた五色糸を死にゆく人の指に結わえて見送ったある地域の昔日の死に際に比して、病室でとりどりのチューブにつながれて心拍数の減少として認識される死というものが以下に卑小で醜く、穢いものであるか。

 

そして我々はその場でどうしていいか、何を言えばいいのかわからず、ただ無作法を恐れてきょろきょろおどおど、おっかなびっくり死者を囲むのである。

 

いったいそこに故人を悼む気持ちはあるのか。作法よりも気持ちが大事だなどという馬鹿げた、ガキ臭い言い訳をするものはきっと誰一人として死者を送ったことがないか、自身の心の活動を見ることを放棄してきたのだろう。

 

作法は心の自然な発露を助けるために、壊れやすいその道を歩きやすく、また邪魔が入らぬようにするために整えられてきた合意である。それを欠いて至当な心の働きを実現できる超人には用がないのかもしれないが、少なくとも私にはそれはかなわないし、おそらく殆どの人間には成し得る芸当ではない。

 

いずれにしても、コロナコロナといいつつ人の命をダシに我が身かわいいを続けている人間は、決して命のことばに他人の命を含めぬことだ。貴様が大事にしているのは貴様の命にすぎず、他人の命を粗末にする人間が自分の命を粗末にせぬわけがない。

 

そもそもがコロナなどよりはるかに巨大な命への冒涜が現代社会では行われ続けているではないか。母家が火事なのに納屋でネズミ退治などしている場合ではなかろう。コロナなどネズミに過ぎぬ。見るべきは我らの社会に根を張った、過剰な合理精神による人間破壊の野蛮さと、人間活動の細分化による相互信頼の急速な毀損である。これを鎮めなければ、我々は住む家をなくす、そう思えばネズミくらい、不快な居候として軒先くらい貸してやればよいではないか。